最後のホームルーム活動 3年1組
2025年3月10日 21時20分 [松北36]はじめに、皆勤賞や優等賞などの賞状が受賞者に手渡され、クラスメート、そして保護者の方から惜しみない拍手が送られました。
その後、卒業証書授与…生徒たちみんな、誇らしい表情で証書を受け取りました。
「新しいことに挑戦してほしい」という担任からのメッセージを受け取り、3年1組43名は北高を巣立ちました。皆さんのこれからのますますの成長、活躍、そして輝かしい未来を、教職員一同心より願っています!
はじめに、皆勤賞や優等賞などの賞状が受賞者に手渡され、クラスメート、そして保護者の方から惜しみない拍手が送られました。
その後、卒業証書授与…生徒たちみんな、誇らしい表情で証書を受け取りました。
「新しいことに挑戦してほしい」という担任からのメッセージを受け取り、3年1組43名は北高を巣立ちました。皆さんのこれからのますますの成長、活躍、そして輝かしい未来を、教職員一同心より願っています!
3年9組は観客席で最後のホームルーム活動を行いました。
45名の卒業生全員が、同級生、そして保護者に向けて高校3年間の思い出、友人や保護者への感謝の気持ちを語りました。
感動の卒業式となりました。
クラス全員揃っての卒業式。3年間で立派に成長しました。
保護者の皆様、3年生の皆さん、ご卒業おめでとうございました!
厳粛な雰囲気の中にも、温かさのある素敵な卒業式となりました。
保護者の皆様、一般利用の方にご配慮いただき、整然と列をなしてのご入場ありがとうございました。
卒業50周年の同窓生の皆様、式へのご参加ありとうございました。
武道館の皆様、施設利用時間の調整をしてくださった柔道関係の皆様にも心よりお礼申し上げます。
第76回卒業生の健康、そして今後の活躍を心より祈っております。
「春の全国高校選抜大会 愛媛勢の展望1」 令和7年3月8日付愛媛新聞
(掲載許可番号:d20250310-04)
本日、卓球場にて3年生を送る会を行いました。
令和6年度は、男子部員5名、女子部員4名が卒業します。
受験勉強に専念するあまり会の存在を知らず遅刻した部員、体調不良や受験で本日欠席した部員もおり、全員揃うことはかないませんでしたが、チームを引っ張り、支えてきた先輩方に、後輩から感謝の気持ちを届けることができました。
みんなのこれからの益々の活躍を、心より応援しています!3年間、素敵な思い出をありがとう!
上記大会に、本校卓球部1年生 川村 侑生さんが出場しました。
1回戦は奈良県の選手。積極的に攻撃し、3-0で快勝、全国の舞台で1勝を挙げました。
2回戦は愛媛出身の選手。0-2から1ゲームを取り返すものの、1-3で敗れました。
先手を取られる苦しい展開の中、サーブを工夫し、ラリー戦では互角以上の戦いをしました。
全国の舞台で勝ち進むことのできるよう、これからも頑張りますので応援よろしくお願いします。
1回戦 川村 3-0 上野 耀太(畝傍高/奈良)
2回戦 川村 1-3 月原 弘暉(名電中/愛知)
上記大会に、本校卓球部1年生 川村 侑生さんが出場しました。
1回戦は強豪校、遊学館の選手。
1ゲーム目は序盤リードするも、終盤追いつかれゲームを落としました。
2ゲーム目も落とし、あとのない3ゲーム目。
終盤粘りを見せ10ー10に追いつきましたが、あと1点が遠く、12-14で3ゲーム目も落とし、0-3で惜敗しました。
1回戦 川村 0-3 渡会 悠斗(遊学館高/石川)
全国区での戦いで、まずは初戦突破を目標にこれからも頑張ります!
「テニス角陸杯」 令和7年2月18日付愛媛新聞
(掲載許可番号:d20250218-06)
2月8日(土)、徳島県において女子バスケットボール新人戦四国大会が開催されました。
一回戦で惜敗はしましたが、今季最大の寒波に負けない熱い戦いを繰り広げました。
多くの応援、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
松山北 75 - 83 城北(徳島県代表)
↑↑ 前日の練習の様子です。
「愛媛サッカーアウォーズ 国スポ4位 少年男子GP」 令和7年2月12日付愛媛新聞
(掲載許可番号:d20250212-06)
「県体重別柔道」 令和7年2月12日付愛媛新聞
(掲載許可番号:d20250212-07)
「松山北高サッカー部 大応援で『恩返し』」 令和7年2月10日付愛媛新聞
(掲載許可番号:d20250210-03)
「四国高校新人大会 バスケット」 令和7年2月10日付愛媛新聞
(掲載許可番号:d20250210-02)
「得意の1500 『上位狙う』」 令和7年2月6日付愛媛新聞
(掲載許可番号:d20250210-01)
2月2日(木)に、愛媛県美術館講堂で第37回愛媛県高等学校文化連盟写真展の表彰式があり、本校写真部より4名が受賞しました。年々作品数が増加し作品のレベルも向上しており、今後の部員の技量向上にもつながると期待します。
以下、奨励賞[2年岸本美花]・審査員特別賞[2年髙本真白・2年好永陽翔]
専門部賞[1年山住悠理]の作品・受賞の写真です。
「剣道 四国高校新人大会」 令和7年2月3日付愛媛新聞
(掲載許可番号:d20250203-05)
「日本室内陸上男子棒高跳び 石丸3位」 令和7年2月3日付愛媛新聞
(掲載許可番号:d20250203-04)
「県高校新人大会 サッカー」 令和7年2月3日付愛媛新聞
(掲載許可番号:d20250203-03)
令和5年度末で転勤される管理職の友澤校長先生、小野山教頭先生を職員でお見送りしました。
松山北高校のためにご尽力くださり、ありがとうございました。
次の勤務地でも、お体を大切にし、笑顔でご活躍ください。
先生方に北高生の活躍が届くよう、生徒、職員ともに頑張ります!
「セキ記念ジュニア選抜大会」 令和6年3月27日付愛媛新聞
本校卓球部2年 釣井 叶大さん が、見事決勝進出を果たしました!
決勝戦ではフルセットの末敗れましたが、次につながる試合内容でした。
(掲載許可番号:d20240328-01)
この記事は産経新聞 村上栄一氏のご好意により無償にて転載許可をいただいています。
セミの声が降り注ぐ愛媛県護国神社(松山市御幸)に松山北高校の生徒たちが集まっていた。「殉職女子学徒追憶之碑」の清掃奉仕に集まった約150人だ。77年前の8月5日、愛媛県今治市の空襲で、学徒動員で工場で働いていた松山城北高等女学校と、松山高等女学校の生徒合わせて24人が米軍機の機銃掃射で殉職する悲惨な出来事があった。そのことを知った現代の高校生たちが集まったのだ。
■逃げ惑う女生徒に機銃掃射
今治市は戦時中に3度にわたって米軍の空襲を受けた。最も被害が大きかったのは昭和20年8月5日夜から6日未明にかけての3度目で、市民をはじめ県内外からの動員学徒ら550人以上が犠牲になった。
護国神社の追憶の碑には、このときの空襲で命を落とした松山城北高等女学校の22人、松山高等女学校の2人の計24人の氏名が刻まれている。
5日夜、会社の寮にいた女生徒たちは浜辺の方角へ向けて列を作って走って逃げた。その長い列に向けて米軍機が襲い掛かった。
追憶の碑は昭和26年に松山城北高女同窓生有志の手によって建立された。以来、松山市内に住む旧友ら有志が清掃や献花などの奉仕を続けてきた。
「これら乙女達がその最期まで祖国に捧げた熱情は至純であった」。追憶の碑にはそう刻まれている。
■生徒会が呼び掛け
松山北高校は明治33年、北予中学校として設立された。第4代校長を日本陸軍「騎兵の父」と呼ばれた松山出身の秋山好古が務めたことで知られる。昭和24年の学制改革による高校再編で旧松山城北高女などと統合し現在の校名になった。
コロナ禍で1年遅れとなった創立120周年の式典が昨年9月に行われ、友澤義弘校長が式辞で学校の歴史を振り返った。その中で「本校120年の校史上、最も悲しい出来事」として終戦間際の殉職を紹介したのだ。「どうしてもこのことは伝えなければと思った」と友澤校長は話す。
これを受け、生徒会が今年の8月5日に追憶の碑の清掃奉仕をしようと全校に向けて呼びかけた。
生徒たちは広場に集合。夏休み中の出来事などをがやがやと語り合っていたが、やがて数人のお年寄りが前に進み出ると、一転静まり返った。
犠牲になった女生徒たちの学友だった。高校生にとってはまさに大先輩。整列して腰を下ろした高校生たちを前に、前部キヨ子さん(91)は「私は横浜に住んでいます。きょう来たら、皆さんでいっぱい。77年前に返ったみたい。14歳で亡くなった友達に会えたみたいです」と優しく語り掛けた。
■あせることない面影
追憶の碑の裏側には犠牲者の氏名がずらりと並ぶ。前部さんは視線をやり、指でなぞって、「この子とこの子は仲が良かった。きっと逃げるときも一緒だったでしょうね。ごめんね。77年も…」。台座に落ちた木の葉を素手で払いながら、涙にむせんだ。
松山市の山本サチヱさん(92)は悲劇の翌日、遺体が安置された小学校へ行った。「お手伝いに行ったのですが、死臭が激しくてね。しばらくして工場の寮へも行きました。ここでも何人か亡くなった。遺体はむしろをかぶせられていましたよ」と悲しい出来事を振り返る。「戦争とはいえ、逃げ惑う人を狙うとは。戦争はむごい」
車いすで訪れた松山市の佐々木圭子さん(91)も追憶の碑に手を合わせた。佐々木さんは「松山市の空襲(昭和20年7月26日深夜から27日未明)で自宅が被害に遭った人は家に帰りなさい」と言われ、今治市を離れ難を逃れた。
佐々木さんによると、工場の寮にいた生徒たちは長い列を作って、走って逃げたのだという。「後ろの方にいた人がみんな亡くなっているんですよ。忘れないですよ。顔が浮かびます」。車いすを押していた次女の佐々木昌子さん(55)は「母の体験を語り継いでいかなければと思います」と話した。
重信トシ子さん(93)は、空襲前に工場で指を切断するけがをして松山市の自宅に帰っていた。その自宅では松山空襲を経験している。
久しぶりに集ったかつての女生徒たち。清掃が一段落すると若々しい笑顔になり、後輩たちに囲まれながら旧交を温めていた。
■若い世代が引き継ぐ
松山北高校生徒会長の2年、篠森珂奈美さんは「引き継いでいきたいという思いです」とまっすぐな思いを述べた。「90歳を過ぎても来られている方がいる。何十年経っても、友情は大事だなと思いました。感動です」。
生徒会の2年、相原颯さんは「生徒会主催でボランティアを募ったら、こんなにいっぱい来てくれた。感謝しています。戦争はだめだという思いが伝わってきて、隅々まで清掃しました」と話した。
同校の武井一郎教頭は、「77年間、友達を思い続けること。本当にあなたたちに見習ってほしいと思います」と集まった生徒たちに呼び掛けた。清掃奉仕を終えて「生徒がこんなに大勢集まるとは思わなかった。来年以降も生徒会に呼び掛けて続けていきたい」と話した。