今治空襲で女子学徒24人犠牲 学友らが「涙の再会」(令和4年8月14日付産経新聞掲載)
2022年8月23日 12時20分
この記事は産経新聞 村上栄一氏のご好意により無償にて転載許可をいただいています。
セミの声が降り注ぐ愛媛県護国神社(松山市御幸)に松山北高校の生徒たちが集まっていた。「殉職女子学徒追憶之碑」の清掃奉仕に集まった約150人だ。77年前の8月5日、愛媛県今治市の空襲で、学徒動員で工場で働いていた松山城北高等女学校と、松山高等女学校の生徒合わせて24人が米軍機の機銃掃射で殉職する悲惨な出来事があった。そのことを知った現代の高校生たちが集まったのだ。
■逃げ惑う女生徒に機銃掃射
今治市は戦時中に3度にわたって米軍の空襲を受けた。最も被害が大きかったのは昭和20年8月5日夜から6日未明にかけての3度目で、市民をはじめ県内外からの動員学徒ら550人以上が犠牲になった。
護国神社の追憶の碑には、このときの空襲で命を落とした松山城北高等女学校の22人、松山高等女学校の2人の計24人の氏名が刻まれている。
5日夜、会社の寮にいた女生徒たちは浜辺の方角へ向けて列を作って走って逃げた。その長い列に向けて米軍機が襲い掛かった。
追憶の碑は昭和26年に松山城北高女同窓生有志の手によって建立された。以来、松山市内に住む旧友ら有志が清掃や献花などの奉仕を続けてきた。
「これら乙女達がその最期まで祖国に捧げた熱情は至純であった」。追憶の碑にはそう刻まれている。
■生徒会が呼び掛け
松山北高校は明治33年、北予中学校として設立された。第4代校長を日本陸軍「騎兵の父」と呼ばれた松山出身の秋山好古が務めたことで知られる。昭和24年の学制改革による高校再編で旧松山城北高女などと統合し現在の校名になった。
コロナ禍で1年遅れとなった創立120周年の式典が昨年9月に行われ、友澤義弘校長が式辞で学校の歴史を振り返った。その中で「本校120年の校史上、最も悲しい出来事」として終戦間際の殉職を紹介したのだ。「どうしてもこのことは伝えなければと思った」と友澤校長は話す。
これを受け、生徒会が今年の8月5日に追憶の碑の清掃奉仕をしようと全校に向けて呼びかけた。
生徒たちは広場に集合。夏休み中の出来事などをがやがやと語り合っていたが、やがて数人のお年寄りが前に進み出ると、一転静まり返った。
犠牲になった女生徒たちの学友だった。高校生にとってはまさに大先輩。整列して腰を下ろした高校生たちを前に、前部キヨ子さん(91)は「私は横浜に住んでいます。きょう来たら、皆さんでいっぱい。77年前に返ったみたい。14歳で亡くなった友達に会えたみたいです」と優しく語り掛けた。
■あせることない面影
追憶の碑の裏側には犠牲者の氏名がずらりと並ぶ。前部さんは視線をやり、指でなぞって、「この子とこの子は仲が良かった。きっと逃げるときも一緒だったでしょうね。ごめんね。77年も…」。台座に落ちた木の葉を素手で払いながら、涙にむせんだ。
松山市の山本サチヱさん(92)は悲劇の翌日、遺体が安置された小学校へ行った。「お手伝いに行ったのですが、死臭が激しくてね。しばらくして工場の寮へも行きました。ここでも何人か亡くなった。遺体はむしろをかぶせられていましたよ」と悲しい出来事を振り返る。「戦争とはいえ、逃げ惑う人を狙うとは。戦争はむごい」
車いすで訪れた松山市の佐々木圭子さん(91)も追憶の碑に手を合わせた。佐々木さんは「松山市の空襲(昭和20年7月26日深夜から27日未明)で自宅が被害に遭った人は家に帰りなさい」と言われ、今治市を離れ難を逃れた。
佐々木さんによると、工場の寮にいた生徒たちは長い列を作って、走って逃げたのだという。「後ろの方にいた人がみんな亡くなっているんですよ。忘れないですよ。顔が浮かびます」。車いすを押していた次女の佐々木昌子さん(55)は「母の体験を語り継いでいかなければと思います」と話した。
重信トシ子さん(93)は、空襲前に工場で指を切断するけがをして松山市の自宅に帰っていた。その自宅では松山空襲を経験している。
久しぶりに集ったかつての女生徒たち。清掃が一段落すると若々しい笑顔になり、後輩たちに囲まれながら旧交を温めていた。
■若い世代が引き継ぐ
松山北高校生徒会長の2年、篠森珂奈美さんは「引き継いでいきたいという思いです」とまっすぐな思いを述べた。「90歳を過ぎても来られている方がいる。何十年経っても、友情は大事だなと思いました。感動です」。
生徒会の2年、相原颯さんは「生徒会主催でボランティアを募ったら、こんなにいっぱい来てくれた。感謝しています。戦争はだめだという思いが伝わってきて、隅々まで清掃しました」と話した。
同校の武井一郎教頭は、「77年間、友達を思い続けること。本当にあなたたちに見習ってほしいと思います」と集まった生徒たちに呼び掛けた。清掃奉仕を終えて「生徒がこんなに大勢集まるとは思わなかった。来年以降も生徒会に呼び掛けて続けていきたい」と話した。