8/5 愛媛万葉苑の清掃活動を行います
[松北18]護国神社の隣にある愛媛万葉苑に、「殉職女子学徒追憶之碑 」と記された慰霊碑があります。太平洋戦争の末期、本校の前身である松山城北高等女学校の生徒が、勤労動員により倉敷紡績今治工場に動員され、1945年8月5日の米軍の今治空襲により、2 2 名の生徒が殉職したのです。戦争の悲劇を後世に伝えるとともに、平和の大切さについて考える機会として、命日にあたる8月5日(水)の9時から、記念碑と万葉苑の清掃活動を行います。ここでは、事前学習として、『愛媛県立松山北高等学校 創立百周年記念誌』の今治空襲の記事を掲載します。これを読んで興味を持った人は、ぜひ清掃活動に参加してください(写真は令和6年の清掃活動の様子です)。
昭和十九年(一九四四)には、学徒動員によって四年生二〇〇人が倉敷紡績北条工場、三年生は大阪の陸軍造兵廠、そして二年生四組(松・竹・梅・桜)の二〇〇人は今治市大新田の倉敷紡績今治工場へ動員されることになった。翌二〇年八月五日、その今治で悲劇は起こった。
この年の三月十七日に列車で今治に到着した当時の二年生は、倉敷紡績今治工場において旋盤やボール盤、検査などの工程に分かれた。他校生に強い対抗意識を燃やし、向こう鉢巻きにモンペ、動員服にエプロン姿で、油まみれになって十三ミリ機銃弾の製造に取り組んでいた。
勤務は、早出が午前四時四〇分起床で同六時から午後二時まで作業、遅出は午前七時半起床で午後二時から一〇時まで作業を行った。宿舎は、粗末な校舎のような古びた木造の建物で、生徒らはすし詰め状態であった。食事は麦飯が大半で、それも丼に六分目、おかずも粗末なもの一皿だけ。彼女らの多くは空腹に悩まされることとなり、洗濯用の石鹼にさえ事欠くことも多かった。
日課はすべて軍隊式であったが、そのような中でも、当初は作業後、消灯までの余暇を自習に費やす生徒も多かった。しかし、六月以降になると灯火管制が厳しくなり、工場から宿舎に帰った後は、わずか一〇分間の点灯しか許されず、読書もままならなくなった。もちろん、学期末の試験もなく、成績簿の成績は工場での勤務ぶりが唯一であった。
月のうち外出は一回だけ、松山への帰省も一回だけ許された。例えば、松・竹両組の班(第一分隊)が帰省する日には、梅・桜両組の班(第二分隊)は今治市内に外出した。しかし、午前中は雑用などに手間どり、一泊の帰省の時は別として、外出はせいぜい三時間程度にすぎなかった。
手紙や小包はすべて検閲を受け、食料品は没収された。帰省の際に母が乏しい物資の中から調達してくれた乾パンやトウキビを仕入れて帰り、皆で分け合って食べるのが唯一の楽しみであった。しかし、のちにはその帰省休暇さえ中止される場合が少なくなかった。後日、殉職した三好郁子は、その心境を日記に次のように書き残している。
四月十三日 待ち焦がれていた明日の休暇、今日のお話では、明日は家に帰れないとのことでがっかりした。神様、嘘でないかしら。洗濯物も、帰れると思って腰や手の痛みも忘れてしたのよ。本当に、ああこの世も、泣く涙も出ない。溜め息も出ない。がっかりした。家でも今日か明日かと首を傾げて待ってもらっているかもしれないのになあ。ああ警戒警報も出た。情けない。日記を書く気がしない。もうやめる。神様お助けください。
六月に沖縄の守備軍が全滅したことを知った彼女らは、同じ工場で働く沖縄の挺身隊員を慰めるため、同僚の大洲高等女学校や松山高等女学校の生徒らと一緒に演芸会を催した。
戦局は末期的症状を示し始め、連日のごとく空襲警報におののく生活が始まっていた。七月の松山空襲も生徒に衝撃を与えていた。西の空が真っ赤に染まり、松山市街は焼土と化した。戦火で両親が亡くなった生徒もいた。
そして、二〇年八月五日、米軍の予告空襲に備え、生徒らは今治市内の近見国民学校に避難していた。教室に泊まる珍しさでひとしきりはしゃいでいた生徒たちであったが、午後六時半過ぎの空襲警報発令とともに、近見国民学校から二キロ離れた隣接する越智郡波止浜町(現今治市)の波止浜国民学校を目指して線路伝いに避難を開始した。その途上で、B29の大編隊の爆撃に遭遇したのである。二十一期生の藪本孝子(旧姓・御堂)は、『創立六十周年記念誌』に、その時の様子を記している。
用水の水を頭からザンブリとかぶる頃には、学校の外の県道は、市中から逃げて行く人たちやら、馬車から飛び出したらしい馬の蹄の音やらがひしめいておりました。そんな人たちの後に巻き込まれながら、昼間教えられた大浦海岸の抜け道へ出ることが瞬間脳裏にひらめきはしましたが、大勢の列から離れる勇気がどうしても出ず、一歩を休めることさえできずに波止浜への道をひた走りました。
この時、右腕に重傷を負った八倉久美子(旧姓・松浦)は後日、当時の模様を次のように語っている。
「パッと照明弾が光ったので、道路に身を伏せました。瞬間、意識を失いましたが、気づいて起き上がってみると、右腕がだるくて仕方がありませんでしたが、皆がどんどん逃げているので私も一緒に走っていました。…後で聞くと、一枚の田んぼに六、七十発の焼夷弾や爆弾が落ちていたそうです」
午後一〇時頃、生徒らはやっとの思いで国鉄波止浜駅付近にたどり着き、目的地の波止浜国民学校に着いたのはもう夜明けに近かった。しかしながら、人員点呼をすると二十二人の生徒が欠けていた。
彼女らの無残な遺体が確認されたのは、朝になってからだった。
朝礼の途中で惨事の知らせを受けて波止浜に急行した教員の田所実子は、修羅場のごとき当時の情景を、『私達の太平洋戦争』の中で次のように記している。
どの筵をあけても、めくっても城北高女の生徒ばかりでした。…(中略)…そのお母様は、その場所を手で撫でて「痛いだろう、痛いだろう」と言っておられました。相手は死んでいるのです。それでも、痛いだろうと撫でてあげる母親の気持ちは、涙なくしては見られませんでした。
松山高等女学校の生徒二人を含む二十四人の遺体は、八月七日、教員や遺族たちの見守る中、波止浜海岸で荼毘に付された。
倉敷紡績今治工場は五日の空襲によって破壊され、生き残った生徒らは翌日、まさに広島に原子爆弾が投下されたその日に、今治から松山に帰郷したのであった。すでに母校の姿は跡形もなかった。戦争が終結したのは、それからわずか九日目のことであった。
松山城北高等女学校の犠牲者二十二人以外にも、重傷を負った同校女生徒の渡辺文ら十七人が戦後、筆舌に尽くしがたい闘病生活を強いられたことも忘れてはならない。
七月末まで学年主任の立場にあった坂本良介は、惨劇の直接の責任者ではなかったが、帰松直後、周囲が引き止めるのを振り切って引責辞職した。もちろん、この事件が動機となって教職を去っていった者は、坂本一人にはとどまらなかった。
「百年の校史上、最大の惨劇」『愛媛県立松山北高等学校 創立百周年記念誌』(2000)より